『自己責任』について
拘束されていた怪しげなジャーナリストの解放劇から、思わぬ『自己責任』論の論争になっていますが、まあ今回の珍事件から得るものはこれくらいですかね。
『自己責任』という言葉は「自業自得、自分が勝手にやったんだから自分で始末しなさい」という意味で使われることが多く、これも至極当然の事でありますが、これを使っていいのは、突き放しても命にかかわらず且つ自分で努力すれば何とかなる場合に限られます。
国家というものは、国民を守るために税金を徴収し、相互扶助のために使うのが役割です。だから山登りやヨットなどで無謀な冒険をしても、遭難したら国家は救助のために全力を尽くします。『自己責任』だから自分で何とかしなさいなどとは言いません(救助費用は自己負担です)。国家にも国家としての『自己責任』があるのです。
本来『自己責任』というものは人間生きている以上あらゆる場面で付いて回るもので、原則論で言えば『働かざるもの食うべからず』に近いのです。日本国においては日本国の法に従い国民として義務を負う。それだけでなくもっと極端なことを言えば「困っている人がいて自分に力があれば助けてあげなければならない」、このような社会構成員としての倫理規範を守る、これをも『自己責任』といっても間違いではありません。「社会人として法を守り人を守り約束を守る」ことを『自己責任』というのだと思います。
そして、あらゆる場合について回る『自己責任』は、遭難して救助されたら「自分の未熟さを反省し、救出に尽力してくれた人たちに感謝し、迷惑を掛けた関係者に謝罪する」これを当然であると考えることです。
解放された自称ジャーナリストY氏は、元々ツイッターで、「自己責任で俺が危険地域に行くのは俺の自由。それを邪魔しようとする安倍総理も日本政府もろくでなし」(かなり意訳です)といって紛争地に出かけて拘束された人。「自己責任論で責めるのはおかしい」とY氏を擁護する人は、「俺様の自由」という間違った『自己責任論』の火付け役は彼であることを無視しています。それは明らかに卑怯です。
紛争地に行くのを止めようとした日本政府は「拘束される危険性が大きいし、もし拘束されたら日本政府の力が及ばない」から止めようとしたのであり、この時点で山や海の遭難とは一線を画しています。他の国と違って『日本国憲法』は、軍隊を持たず他国で攻撃された法人を救うことさえできない憲法なのですからなおさらです。
日本政府は「いざとなったら自力で何とかするしかないですよ」と伝え、本人がそれを了承しているということですから、『自己責任論』はこれ以上は無意味・無力です。
「俺が生きようが死のうがお前らには関係ない。余計な口出しはするな」、犯罪者に多いタイプですが、この時点で彼は『国家から独立した』アナーキストです。日本国民でもなくなります。しかし国内にいれば、このようなアナーキーな無法者でも犯罪を犯せば法に則って逮捕されます。国外に出ればその場所場所の法で裁かれます。彼はイスラム原理主義者の法によって拘束されたのでしょう。
ところが、拘束が事実かどうかはまだ謎ですが、拘束された彼は、無様な姿の映像を撮られその中で日本に救いを求めた。自ら『自己責任』を主張して日本政府と総理を罵倒して出国しながら、今さら「拘束されたから身代金払ってくれ、救助してくれはないだろ」これが日本人の正直な感想です。Y氏はあまりにも無自覚無責任でご都合主義です。
どういういきさつで解放されたのかもよく判りませんが、本当に拘束されていたなら「解放されてよかった」と思います。だが解放されて『日本政府の預かり』になったその時点で日本国民として『自己責任』は復活します。もしそれがいやなら、日本政府の保護を振り切って一人異国の砂漠に戻っていれば筋は通りますが・・・。
彼はそうしませんでした。日本政府の手によって健康診断を受け、食事を与えられ、飛行機に乗って日本に帰って(やって?)来ました。
当然『自己責任』として「自分の過ちを認め謝罪し保護を感謝する」ものと思ったら、「荷物を奪われたのが腹が立つ」「解放に日本政府が関わっていたと思われたくない」です。彼の言葉には拘束されていたという事実など微塵も感じられない、自己中心的で卑小な主張だけでした。
もし今回の件で日本政府が裏から手をまわして身代金を支払っていたら、海や山の遭難で本人に救助費用の負担を求めるのと同じで、そのお金をY氏に請求するのが当然です。ですよね?それが自己責任でしょ?