『昭和の怪物七つの謎』感想
著者の保坂正康氏を知らないながら、大仰なタイトルに惹かれて買ってしまった。怪物と取り上げられた人達は、東條英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺和子、瀬島龍三、吉田茂。『昭和の怪物七つの謎』タイトルはタイトル・キャッチコピーはキャッチコピーだ。怒る気もしないが竜頭蛇尾のそしりは免れないだろう。
この本の『何が謎なのかそれが謎』だ
これが読後の感想。それなりに長い間昭和史を研究してきたジャーナリストなのだろうが、どんな謎を解き明かそうとしたのか全く不明。羊頭狗肉。
瀬島龍三氏との会見に即して、日本陸軍官僚(参謀)の悪癖として
「都合の悪いことは決して口にしない」「自らの意見は常に他人の意見を語り本音は言わない」「ある事実(一部)を語ることで『全体的』と理解させる」「相手の知識量・情報量に合わせて自説を語る」「一時資料の改竄もいとわない」
とあげつらい、そのやり方が現代の官僚にまで踏襲されている、と非難するのだが、これは保坂氏自身の癖そのものではないかという印象を持つ。
最初の方で唐突に、カッコ書きで現総理・安倍晋三への一方的批判が出て来て驚き、「こりゃあ随分左翼よりの本だろうな」と思いながら読んだが、そんなものは全く思わせない。左翼的ではないがかといって右翼的でもない。つまりただの事実の列記という具合で思想的なものは全く感じられないのだ。だから面白くもなんともない。
怪物の一人『石原莞爾』が、戦後の或る時「東条英機との対立はどのようなものか?」と尋ねられ「わたしには多少の思いはあるが東条には思想はない。対立など起きようがない」と答えた逸話が載っている。実に石原莞爾らしい言葉だが、この言葉もまた保坂氏に跳ね返る。今の保坂氏に思想は感じられない。学校で歴史の教鞭をとるなら適任だろう。
あまりにも雲をつかむような印象なので来歴を調べてみると、職歴に電通PRセンターや朝日ソノラマ編集者という経歴があるが、本の著者紹介の履歴にはこれらは載せてない。時代がそうさせているのか本人の内面の変化のあらわれかどうかは不明だが、恐らくはかつての自虐史観に対する『反駁の嵐のような現在』がそうさせているのだろう。
彼は学生時代、演劇部に入り『特攻隊』をテーマに脚本を書いている。執筆活動に入ってからは時代の証言を求め数多くの取材をしている。その中にはやはり吉田清治のような人物が混じっていたのではないか。特攻隊員の出撃時の様子を証言した整備兵の証言として次のような話を書いている。
「特攻隊員は出撃前、失禁し錯乱を起こすようなもの者が多くいて、整備兵が操縦席に押し込んだ」「特攻隊員は無線で監視されており、特攻間際に操縦席で隊員が何を話すか残っていた。軍・上官に対する恨みの声が多かった。それらの記録は捨てられた」
これらは、常識的に考えれば在りえない不可能な話である。正気なくして当時の飛行機は操縦できない。無線が届くような距離に敵艦はいない。馬鹿げている。
だが保坂氏は『取材した真実の声』としてこのような文章を残している。
安保闘争にも参加している保坂氏はかつてはガチガチの左翼思想・自虐史観に囚われていたのだろう。大江健三郎氏などと同じだが、過去のあやまちを認め公表しない限り、もはや歴史などを書く資格のないジャーナリストの一人だ。気の毒な時代に翻弄された一人の青年だったのだろう。
どうでもいいことだが、この逆のパターンがある。小林よしのり氏だ。ゴーマニズムと題し・漫画を手段として多くの若者が自虐史観から抜け出すきっかけをつくり多くのシンパができた。保坂氏らと軌跡を交差させながら脚光を浴びたが、彼の場合『過去から学んで過去を批判する」ことはできたが「今起きていること」には感情的と呼ぶしかない考察力(?)の乏しさを曝した。
なんとか志桜里さんを稀代の政治家のように持ち上げて呆れられ、ついには共産党を応援するまで変わってしまった。こちらはまだ意気揚々としているが今後どうなるか。書く資格のないジャーナリストの一人となることは容易に想像がつく。
偉そうな事ばかり書いたが、情報が自由に手に入る時代であれば、多くのジャーナリストは苦しまなくて済んだかもしれない。もしそうであったらもっと多くの日本人が捏造歴史に苦しんでいなかっただろう。我々はネット時代を賢く生きなければならないとつくづく思う。