2019年10月23日

政教一致・日本

『即位礼正殿の儀』は政教分離を逸脱しているのか?

 政教分離という言葉はよく誤解されている。
宗教団体や信者が成人に関わってはならないという誤解。外国には宗教を核とした政党はいくらでもある。日本の公明党もそうだ。
憲法で信教の自由を標榜している限り政治家が信心することを止められるはずもない。その彼らの結社の自由もまた守られる。宗教団体が政党を要することは間違いではないのだ。つまり政治と宗教を分離することはできないのだ。

 

 では政教分離の本当の意味は何だ?というと、学者さんは「国家と宗教の分離である」というのだがこれがなかなかむつかしい。そう定義して信教(宗教)の自由は3つの基礎構造によって成り立つ、すなわち「内心の自由」「宗教的行為の自由(表現の自由)」「宗教的結社の自由」だという。

だがこれはおかしい。そもそもの「国家と宗教の分離」がおかしい。国家を運営するのが政治で政治が宗教を容認するなら、国家と宗教は分離できないのだ。

 現在は民主主義の時代で、その意識決定手法が『多数決』であるなら、自分の信じない宗教団体を母体とする政党が政権を握ることもある。そこで国家のためという美辞麗句で他の宗教が断罪されることも起きるだろう。

その典型的な例は共産主義国家である。だがそれさえも合法的手段による多数決の決定であるなら許される。
そこで許される信教の自由は『内心の自由』だけで『表現の自由』も『結社の自由』も抹殺される。しかしこれもまた欺瞞である。表現の自由や結社の自由を奪われた『内心の自由』なんて子供だましの絵空事である。

 

根本的な間違いは「我が神に背くものは敵である」という『一神教』そのものにあるのだ。共産主義も『共産党』という神を戴く『独善一神教』で共産党のトップである人間が神になることで大虐殺を引き起こしてきたのだ。

キリストは『汝の敵を愛せよ』と言いながら、キリスト教徒は異教徒・日本人の頭上に、後ろ手で核兵器を投じ、何も見なかったかのようにふるまっている。
今更責める気はないが、日本でなくて歴史捏造国家の中国・韓国であったらさてどうなっていただろう?

 

今世紀は、「人類が宗教に対してその是非を問う勇気を持たなければならない」時代だろうと思う。

 

このジレンマを克服できたのは、先進諸国の中では日本だけだ。
日本の神々は仏教の中に、他の追随を許さぬ普遍的な哲学を見た。
そこで日の本の神々は仏教に下り、仏教の神々として自らを置いた。

優秀な哲学・仏教と融和的汎神教であった神道が出会った日本は、
憲法の中で神道が脈々と息づいて流れている。
日本国において、やみくもに神道を否定したり、
神道を要する政治を糾弾する必要はないのだ。

 

『即位礼正殿の儀』で、日の本を寿ぐかのように、
突然雨がやみ、皇居の上に虹がかかる奇跡を見た。
これは日本に素晴らしい未来が待っている瑞兆に違いない。

 

日本は古代より連綿と続く政教一致の国である。
天皇は権力ではなく権威で日の本を統べてきた。
世界は徐々に、その日本の真の姿に目覚めつつある。
彼らは天皇の御業・日本の神事にこぞって集うだろう。
世界はやがて日本の姿勢を取り込もうとするだろう。

 

 


コメント(3)

  1. LENNONより 

    日本の神道を宗教と捉えるのは如何な物か?神道とは古来より日本人が生活し護り育てた伝統であり文化だ。他の宗教と違い戒律を強要せずひれ伏す事も強要しない。政治と宗教と言うより政治の根幹を構成してる日本人の物の考え方だ。一神教などと一緒にしないで欲しい。

  2. reporterより 

    『根本的な間違いは「我が神に背くものは敵である」という『一神教』そのものにあるのだ。』
    神道と一神教の違いを明らかにしたつもりだったのですが・・・。

  3. LENNONより 

    神道であっても日本に背く人間は敵だと認識して間違い無いのでは?これは神道で有ろうが他の宗教で有ろうがその国とその国の国民に背けば同じ様な罰を受けるのは当然でしょう。要は喧嘩を売られれば買うってのは至極当然の話ですよ。

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