2016年7月29日

人はなぜ生きるのだろう?

『人を殺してはならない』無邪気にそう口にする人が多い。この手の人の大半はその理由として「自分は殺されたくないから」という。まあ当然である。だがこの理由こそ逆に「人を殺してはならない」という主張を否定することになる。なぜなら「殺されたくない人は自分の命を守るためなら人を殺す」からだ。正当防衛の論理であり、条件付きであるが「人を殺してもいい派」である。

「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問に答え得るのは、まず考えられるのは『神の意志』と言いきれる人達だ。しかしその人達の信じる神の多くは「神を否定する者を殺める」事にためらわない。何をかいわんやである。歴史上、宗教対立が引き起こした戦争は数え切れない。

次に「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問に答え得るのは、生きていることが楽しくて楽しくて仕方がない人だ。「生きることは肉体的・精神的に心地よい最高の価値である」と体験的に知る人だ。「人を殺すことはその価値を奪う」だから「殺してはならない」と云えるだろう。だがこの場合でも、それらの価値は病や老化で失われる。死は必ず訪れる。「人を殺してはならない」という根拠はなくなる。
つまり錯誤の上に成り立っている意見と言わなくてはならない。

 
「なぜ人を殺してはならないのか」という問いに答えるのは本当はとっても難しいのだ。多くの人が「無宗教です」と胸を張る特殊国家・日本人は特に気をつけなければならない。


なんでこんなことを考えているのか?
そう、「重複障害者に安楽死を与える」と障害者施設の職員が19人の重度障害者の命を奪った事件だ。そのニュースが流れ、キャスターと評論家が「なぜこんなことが起きたのか?」と話している。だが彼らの話に違和感を持ちながら眺めている自分がいる。その理由もはっきりしている。


もうわたしもいい年になった。いつ何があってもおかしくない。同年代の仲間が集まると病気や体調の話になりがちだ。その内誰かが必ず「認知症になってまで生きたくねーなぁ」と云い始める。その声にみんなそろって賛同するのだ。

だが今度のニュースで考えたのだ。
「認知症になってまで生きたくない」わたし達は、「認知症になったら死んだほうがましだ」と云っているのだ。そんな俺たちに今度の事件について何かを語る資格はあるのか?

もとより認知症と重複障害が同じものかどうかすら体験するすべはないのだが、無宗教であり「認知症になったら死んだほうがましだ」などと言っている人間はこの問題に口をつぐんだ方がいいだろう

「なぜ人を殺してはならないのか?」この問いに確信をもって「殺してはならない」と答えられる人は、自分と身内・友人が殺されても相手を殺さない・病気や認知症になっても自然死を全うする・どんな不幸にあっても死を選ばない『生の哲学』を築き上げた人だけだろう。

そうは云っても、それには健全な思考力が前提になるのだが・・・・・。


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