2019年6月2日

流 東山彰良

直木賞『流』を書いた作家・東山彰良(ひがしやま・あきら)氏が今日の日経新聞に寄稿していた。以前『流』を読んだ。決して面白くなかったわけではないが『流』しか読んでないので、その程度の印象だったのだろう。漠然と『大陸的な無頼派作家』というイメージを持っていた。

阿保である。これほど繊細な言葉を紡ぎだせる人と思っていなかった。

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「私はちっぽけで、だから怒りっぽくて、自分を取り巻く現実に苛立ち、酒ばかり飲んでいた」
「そこで、私は小説を書き始めた。(中略)ある晩自家族が寝静まったあとにふらっと書きだして、そのまま二十年間書きつづけている。」

「自己嫌悪や劣等感・・(中略)。それまで誰かを不愉快にさせる以外に使い道のなかったそうした感情に、やっとほかの用途を見出せたのだから。」
「ピカピカに磨かれた新しい言葉が吐き出されれば、私は人生に対して少しだけやさしくなれる。」
「好きなことをひとつやるためには、好きでないことを九十九もやらなければならない。」

「子供達も大きくなった。(中略)とんでもない偉業を成し遂げたような気がする。彼らのおかげで私の言葉には幾分重みがついたはずだ。」
「そうでなかったら、私は学ぶべきときになにも学ばなかった阿呆だということになる。」

「少しの幸運は確かにあったほうがいい。だけどそれは必要不可欠のものではない。」
「幸運と悪運は(中略)、どちらも物事を変える力を持っていて、どちらも九十九の憂鬱のうちのひとつにすぎない。」

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(勝手に抜粋で利用させていただいた。お許しいただきたい。2019年6月2日日経新聞最終頁–『九十九の憂鬱』をご覧ください。)
なんとナイーブな!だが本当の無頼派とはこのような人なのかもしれない。
「私は学ぶべきときになにも学ばなかった阿呆」だったことに気づいた。
もう一度『流』を読んでみよう。


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