中・韓は清朝・李朝に変わらず
日本で頻発しているあおり運転は、「自分がないがしろにされた(気がする)」ことが許せず感情が暴発し、暴力で相手を傷つけることでバランスを取ろうとするのだが、自分が勝手に思い込んでいるのだから、相手が謝罪しようが何をしようが根本的な解決にはならない。人を傷つけても当然と反省しない。折に触れ感情の暴発が繰り返される。
私はこれらの感情を抑えられない行動を、朝鮮半島と中華からの感染症と思っている。感染症というだけでなく感染した人間が日本に大量に入ってきていると思っている。その人間たちが日本でウィルスを振りまいている。
これは朝鮮半島の人間の行動の特徴とされる『火病』といわれるものである。『金持ち喧嘩せず』というが本当かどうかは知らない。半島では金持ちの子女が火病を発して警察沙汰まで起きる。しかし貧乏であることにコンプレックスを持っている人間の中には「貧富の差を見せつけられた」(ような気がした)時、見下されたと思い感情が暴発する。この場合は自分の力のなさを知っているので、嫉妬や妬みそして誹謗中傷という陰湿な形をとる事が多い。
このような行動は、法治国家であれば被害者から訴えられ、状況を判断して法にのっとって処罰される。それがみっともないから日本人は昔から自重するし、そもそもそのような争いにならないような協調性を身に着けてきた。争いを起こしても何も得にならない。我が身を顧みればわかることである。日本人はその年長者の教えを順次学びこの国と社会を作ってきた。
だが、それらの根本である『法治』といえば大げさであるが「社会のルールを守る」意識がなければ、感情に任せて噛みつき殴り盗み殺し、それでも自分を抑えきれない地獄のような国が出来上がる。
法治を失った無法国家の代表がどうやら中華のようだ。
月刊『HANADA』は時々読むのだが、その4月号の連載『中国残酷物語』(福島香織 筆)に『中華人民共和国』の司法の解説がある。これを読めば中華の場合のそれは、司法でもなく裁判でもなく、弁護士はお飾りで、弁護士が被告を擁護するため起訴事実に異議を唱えれば、弁護士自身が『共犯者』として逮捕されるというのである。
中華がそこまで無法とは知らなかった。
どういう理屈かといえば「裁判は共産党が行う。その裁判に異議を唱える弁護士は共産党の敵」ということらしい。いまや中国の刑事事件では、被告も弁護士をつけることは考えないのだという。
この中国の『共産党』というものは、もはやイデオロギーとしての『共産主義』ではない。イデオロギーの面影を残しているなら、『イデオロギーにのっとった法治』くらいのカッコはつけるだろう。中国ではそんなものはとっくに消え失せ、共産党という名の独裁・宗教(信仰)国家で、権力のヒエラルキーが全ての人治国家なのだ。
ここに至って、最も近い国『韓国』が、なぜあれほど裁判を利用した『情治判決』を連発し、日本誹謗を繰り返すのか少し理解した。韓国人は過去のしがらみで中国が大嫌いである。大嫌いであるが、歴史始まって以来常に宗主国と仰いできた『飼い犬』根性が抜けきらない。
中国の『あきれた司法』を横目で見ながら、それをまねて韓国の『火病司法』を繰り返しているのだ。
これは何を意味するかといえば、
「中国と朝鮮半島は、近代国家の共通言語、
『法治概念』を身に着けていない」
ということである。
「彼等とは、交渉や取引や協力はできない」、
日・米はようやくそのことに気づきつつある。
だが、直接関わってない国は気づいていない。
中・韓は日本のおかげで経済は発展した。
しかし彼らは結局日本から何も学ばなかった。
いや学ぼうとしなかった。清朝・李朝のままだ。
人間性を疑うほど見境なく怒りを撒き散らす中韓の無様が日本にじわじわと浸透している。恐ろしいことである。その根源である『無法無秩序』『司法破壊』にもまた日本は感染しつつある。
好例が地検特捜部と日産が『司法取引』とうそぶいているカルロスゴーン裁判だと思っている。
平成が終わり新しい元号の時代が始まる、その時代を「後世に託すに足る時代」にするのは我々の役目だろう。
「経済や生活に目を奪われ、中朝韓の悪弊を大目に見る日本の悪弊」を打破しなければならない。