日本人の誇り
近頃、日本人が活躍しそれを誇らしく話す人に向かって、必ず「それはその人が偉いのであって、あなたや日本が偉いわけではない」という評論家らしき人達がいる。まあ『思考停止』している人達だ。
「同じ日本人として誇らしい気持ちを持つ」というこの自然な感情を理解できないのは日本人じゃない。
徳川幕府が鎖国を国是とした背景はキリスト教の蔓延を恐れたからである。大航海時代キリスト教は布教と共に植民地支配・富の簒奪と奴隷狩りを国家支配者と結託して行った。日本の戦国武将たちは西洋文明に興味を持ちながらキリスト教を冷静に観察したようである。
キリスト教布教を名目に日本に乗り込んだイエズス会は多くの日本人を奴隷として拉致したと言われている。〔「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨ-ロッパ」ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 (中公叢書)〕
その事実を知っていたのかどうか怪しいが、信長はキリスト教に大いに興味を持っていたようである。だがそれはキリシタンを彼の天下統治にどのように利用できるか考えていたからだろう。
『伴天連追放令』をだした秀吉は、大名たちがキリシタンになって領民にキリスト教を押し付けるのを警戒したようである。信長配下で天下を支配した彼にとって、信長が一向宗にとった政策と同じ結論になったのだろう。
家康という天下人からは信長や秀吉ほどのエキセントリックさは感じられない。良く云えば彼は日本人として常識的であったのだろう。その彼が強烈な一神教である『キリスト教』に強い違和感を持ったことは想像に難くない。彼の思想を継いだ家光は鎖国を決断した。
そのおかげで、江戸期日本は世界に類のない日本文化の花を咲かせた。明治維新・軍国主義時代を経て、現在に至るまで日本はそのアイデンティティを失わず、敗戦にもかかわらずグローバル化の中で、確固たる地位を築いている。
日本にむかって「歴史を見つめよ」などと云う片腹痛いことを言う国々を見ればいい。
キリスト教を真似た似非基督教を掲げる自堕落な聖職者が蔓延し、同時に未熟な左翼思想により偽善リベラリズムとポピュリズムに混乱する国。中世そのままの意識から抜け出れず、利益のみを追及する形だけの共産主義を掲げ、支配者・被支配者ともに金に群がり金にあかせて世界制覇を夢想する狂気の国。「歴史を見つめる」べきは、悲しいかな「誇るべき歴史を持たぬ」彼らである。
日本は他国に向かって「自国の歴史を見つめよ」などと叫ばなくてもよいだけ幸せなのだ。
彼らの如く「歯ぎしりするほどの妬みと憎しみを持って」他国に対峙しなくてよいのだ。
我々は先人たちに感謝し、日本国に誇りをもって、世界に貢献する道を歩まなければならない。